تسجيل الدخول国王に会う話が決まった翌日、フィオナは「今日の午後、時間ある?」とだけ言って、珍しく一人で事務室に残った。
エリナは午前中の仕事——石鹸の出荷確認と、ベルナ向けの在庫調整、それからルナの薬草仕分けのチェック——を片付けてから、昼食を早めに済ませた。
午後、事務室に入ると、フィオナが既に机の上に何枚もの板と紙を広げていた。
板には、炭で書かれた名前と線。紙には簡単な地図と、いくつかの数字。「座って」
フィオナが顎で向かいの椅子を示した。いつもより声が少しだけ低い。
「今日、話すって言ってたクロヴェルのこと?」
「ええ。どうせ国王に会う前に、どこかで一度は全部整理しなきゃいけなかったから」エリナは椅子に座り、机の上の板を見た。
中央に大きく『クロヴェル侯爵』。そこから何本も線が伸びている。魔法省、財務省、商人ギルド、王立魔法学院、地方領主たちの名前。フィオナが一本一本、指でなぞった。
「じゃ、始めましょうか。——私が知っているクロヴェル家の話を、全部」
「まず、私の家から」フィオナは自分の名前を書いた小さな板を指先で軽く叩いた。
「クロスベル男爵家。今は没落済み」
「二年前、事業失敗で没落したって言ってた」 「表向きはね」フィオナが皮肉っぽく笑った。
「でも、内情は少し違う」
「聞かせて」 「父は元々、地方の小さな港町を任されてた。クロスベル領は船の寄港地で、商人との付き合いが多かった。父はそこで、魔法に頼らない運送の仕組み——馬車と小舟を組み合わせた物流網——を考えて、実際に動かし始めた」エリナの頭の中で、すぐに構図が浮かんだ。
「既存の魔法輸送と競合した」
「そう」フィオナが頷く。
「王都と各地方を結ぶ主要な早馬便や魔法通信網は、ほとんどがクロヴェル家とその取り巻きの貴族の管理下にある。うちの父のやろうとしたことは、それに穴を開ける可能性があった。だから——潰された」
フィオナの声は淡々としていた。
「最初は税の査察が来た。次に、取引先の商人に『クロスベルと組むなら、うちとの契約は切る』って圧力がかかった。それでも粘ってたら、今度は借入金の返済期限が一方的に前倒しにされた」
「借金?」 「事業を広げるための資金よ。父は計画的に借りてた。でも貸し手の一部が、ある日突然『返済期限を守れないなら一括返済を求める』って言い出した。普通はそんな無茶はしない。でも——背後に、いた。魔法省と繋がっている貴族と、商人ギルドの一部。それをまとめて動かせる人間なんて、そう多くない」フィオナが中央の名前を軽く叩いた。
「クロヴェル侯爵。直接命令したかどうかまでは知らないけど、『あの領地の試みは目障りだ』と言ったのは確か」
エリナは指先に力が入るのを自覚した。机の縁を握る手が、少し白くなる。
「父は、借り換え交渉をしようとした。でも相手にされなかった。最終的に、爵位を返上して資産を手放す代わりに、刑事罰だけは免れた。——形式上は『事業の失敗による自滅』。実態は、じわじわと首を絞められて選択肢を奪われた結果」
フィオナの目が、一瞬だけ揺れた。すぐに元の鋭さに戻る。
「それが、私とクロヴェルの最初の接点」
「直接会ったことは?」 「一度だけ」フィオナが視線を少し宙に泳がせた。
「爵位返上の書類に父が署名する時、立ち会い人として来てた」
「どんな人だった?」 「完璧な貴族、って感じ」フィオナが唇を歪めた。
「穏やかで、礼儀正しくて、言葉選びも丁寧。それでいて、一言一言が、相手の逃げ道を塞ぐように計算されてる」
エリナはダリウスの笑顔を思い出した。穏やかで、礼儀正しくて、それでもどこかぎこちない目。
「父に、『あなたの努力は理解している』って言ったの。『しかし、王国の秩序を守るためには、一定の線引きが必要だ』って。——わかる?」
「『理解している』と言いながら、切り捨てる言い方」 「そう。理解してるって言葉ほど、相手を突き放す道具はないわ」フィオナの声に、かすかな怒りが滲んだ。
「その目を見て、ああ、この人は父の何も見てないんだなってわかった」
エリナは黙って聞いていた。
理解している、か。 その言葉の軽さと重さを、前世でも何度も見てきた。「で、本題はここから」
フィオナは指で板の別の部分を叩いた。
「クロヴェル家の『力の源』の話」
中央の『クロヴェル侯爵』から伸びる線の一本に、『魔法省 副長官』と書かれている。
「魔法省は名目上、魔法師の登録と任用を管理する役所。でも実態は『魔法に関わるあらゆる利権を束ねるところ』。軍の魔法部隊、王都の結界維持、王宮の防御、魔法研究への資金配分——全部、ここを通る」
「そこに、クロヴェルがいる」 「副長官という肩書き以上の影響力よ。現長官は高齢で、実務はほとんどクロヴェルが仕切ってる。つまり、この国の『魔法』に関する実権の多くを握ってるってこと」 「魔法省の中にも派閥がある?」 「もちろん。大きく三つ」フィオナは別の板を取り出し、三つの円を書いて繋いだ。
「一つ目が、クロヴェルを中心とした『貴族派』。魔法は貴族の特権であるべき、って考え方。二つ目が『実務派』。魔法の有効活用を重視して、階級より成果を見る人たち。レインの師匠は多分こっち。三つ目が『研究派』。新しい魔法理論や応用技術に興味がある学者タイプ」
「エリナは、どこから見ても嫌われそうね」フィオナが自分で言って、自分で笑った。
「魔法を使わずに結果を出してるから、貴族派から見れば目障り。実務派から見れば利用価値はあるけど、扱いが難しい。研究派から見れば興味深いけど、自分たちの領分を侵されそう」
「つまり、誰にとっても『無視できない存在』になりつつある」 「そういうこと」エリナは、静かに息を吐いた。
無視されない、というのは、必ずしも良いことではない。 注目は、保護にもなるが、標的にもなる。「クロヴェルが最近、明確に動いたのは三つ」
フィオナは一本指を立てた。
「一つ目。学院への通達。レインが言ってた『魔法以外の手段を過度に評価するな』ってやつ。これは、治癒魔法師と薬草学講座に特に強く出てる。石鹸と消毒液の位置づけを、あくまで『補助』に押さえつけようとしてる」
「魔法の優位を守りたい」 「そう。二つ目」フィオナは別の線を叩いた。
「商人ギルドの一部に、『アッシュフォード商会への融資条件を厳しくしろ』って圧力がかかってる。具体的には、『土地を担保にしない限り大口の融資はするな』って」
「まだ、うちは大口の融資を受けてない」 「だから事前牽制よ。あなたが今後、規模を一気に広げようとした時に、『土地を担保にしろ』って言われる可能性が高い。それを飲めば、アッシュフォード商会と、あなたの家族全員の生活基盤をギルド経由で握られる」エリナは、自分の胸のあたりをぎゅっと掴んだような感覚を覚えた。
母の住む長屋。マリオの家。ルナの居場所。 それらが見えない鎖で繋がれる未来図。「三つ目」
フィオナの声が少し低くなった。
「これは、半分は噂。でも、かなり信憑性が高い」
「聞かせて」 「クロヴェル侯爵が、次期魔法省長官の椅子を狙ってる。現長官が引退するタイミングを見計らって、自分を後継に据えるための根回しを始めてるって話」エリナの脳裏に、レインの言葉が浮かんだ。
——最近、国王陛下との距離が開いている。
「国王は?」
「陛下は、本当は別の人間を長官にしたいらしい。平民出身で、実務派の魔法師。クロヴェルとは真逆のタイプ。でもそれをやるには、大貴族たちの反発が強すぎる」 「だから、板挟み」 「そう。そこで陛下が探しているのが、『魔法以外の力』」フィオナがエリナを指先で示した。あなたみたいな」 「じゃあ、質問」フィオナが椅子の背にもたれた。
「クロヴェルが今後取りそうな手を、三つ挙げて」
いきなりの問いかけだったが、エリナの頭はすでに動いていた。
「一つ目、情報操作。私とアッシュフォード商会に関する噂を流して、『危険な思想を持った無謀な子ども』って印象を広める」
「具体的には?」 「『魔法を否定している』『貴族社会を壊そうとしている』『危険な薬をばらまいている』とか。治癒魔法師の仕事を奪うって話もその一つ」 「正解。二つ目は?」 「経済的圧迫。今言ってた融資条件の話。あと、取引先への圧力。ロッソ商会に『アッシュフォード商会と取引を続けるなら、別の利権を渡さない』ってやる可能性もある」 「三つ目」 「……直接的な妨害。商会の倉庫を急な検査で止めるとか、運送路に嫌がらせをするとか、最悪は事故に見せかけてこちらの人間を——」そこで、エリナは言葉を切った。
フィオナが静かに頷いた。「だからこそ、こっちの『手札』も整理する必要があるのよ」
フィオナは板の別の部分を叩いた。
「クロヴェルに対抗するための材料は、大きく四つ」
一本指。
「一つ目。数字。ルシェムと学院での成果データ。『魔法以外の手段』が、どれだけ人を救っているかの証拠。これは、誰が見ても否定しにくい」
二本目の指。
「二つ目。世論。町の人たち、商人たち、平民出身の魔法師たち。『石鹸と薬が役に立っている』って実感を持つ人間が増えれば増えるほど、クロヴェルが公然とそれを潰しにくくなる」
三本目の指。
「三つ目。国王陛下とのパイプ。これはこれから作るところ。陛下があなたの価値を直接理解してくれれば、クロヴェルが動いた時に『待った』をかけられる可能性がある」
四本目の指。
「四つ目。——ダリウス・クロヴェル」
エリナの目がわずかに見開かれた。
「ダリウス?」
「会ったでしょう。あの男の目を見て、どう思った?」エリナは机を見つめた。
「……完全な悪人には見えなかった」
「そう」フィオナが頷く。
「あの人は、父親と同じやり方をしてるけど、同じものを見てるわけじゃない」
「どういう意味?」 「彼は、父親のやり方に疑問を持ってる。でも家と立場がそれを許さない。そういう目だった」フィオナが少しだけ視線を落とした。
「私の家が爵位を返上する時も、彼は立ち会いに来てた」
「その時に、何か——」 「彼は、何も言わなかった。父親の横に立って、黙って書類を見てた。それが逆に印象に残ったのよ。何も言わない目って、あるでしょう」エリナはレインの目を思い出した。あの無表情な目の奥にある、静かな何か。それとは少し違う種類の何も言わない目。
「ダリウスは、父親になりきれない」
フィオナが続けた。
「でも、今は父親の側に立たざるを得ない。そういう人間は、どこかで揺らぐ。——その揺らぎを、利用できる可能性がある」
「味方につける?」 「そこまではいかなくても、『完全な敵』にはさせない。情報を流してもらうとか、動きを遅らせてもらうとか。クロヴェル家の中に、一本だけでもこちら側に揺れている線を作れたら、大きい」エリナは黙って考えた。
「でも——危険でもある」
「もちろん」フィオナがあっさり認めた。
「感情に流されて近づけば、逆に利用されるリスクもある。だから、私が見る」
「フィオナが?」 「情報戦と感情戦は、私の担当。あなたは数字と戦略に集中すればいい」その言い方が妙に頼もしくて、エリナは少しだけ肩の力が抜けた。
「最後に、父上の話」
フィオナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「アッシュフォード侯爵のこと」
エリナの背筋が、無意識に伸びた。
「知ってること、全部教えて」
「全部は難しいけど、私が聞いた範囲でね」フィオナは別の紙を取り出した。
「父がよく話してたの。『アッシュフォード侯爵がこんな提案をしていた』『もしあの人の案が通っていたら、うちの領地も違っていたかもしれない』って」
「父の……案?」 「『魔法に頼らない国家運営』。魔法省の権限を削って、省庁間のバランスを取り直す案」フィオナが図を描いた。
「軍の一部を平民志願制にして、魔法だけじゃなく戦術と兵站で戦える部隊を作る案。税制を見直して、魔法貴族の特権税を削る案」
「それって——」 「今あなたがやろうとしてることの、国家レベル版よ」フィオナが笑った。
「父はよく言ってた。『アッシュフォード侯爵は、魔法に頼りきったこの国の膝に、そっと楔を打ち込もうとしている』って」
エリナの喉の奥が、きゅっと詰まるのを感じた。
「でも、その案は通らなかった」
「当然ね。クロヴェルを筆頭に、貴族派が総出で潰した。『魔法の権威を傷つける』『王国の伝統に反する』って大騒ぎして」 「父は——どうしてそこまで」 「理由までは知らない。でも、多分——」フィオナがエリナを見た。
「あなたと同じものを見てたからじゃない?」
エリナは、机の上の板を見つめた。
魔法省、商人ギルド、王立魔法学院、貴族派、実務派、国王。そこに一本だけ、アッシュフォードの名が線でつながれていた。父は一人で、この図を相手にしていた。
今は、自分がそれを継ごうとしている。 でも——自分は一人ではない。 フィオナがいて、ゴードンがいて、マリオがいて、ルナがいて。レインがいる。 それが、父との一番大きな違いだ。「……ありがとう」
気づけば、エリナの口からその言葉がこぼれていた。
「何に?」
「全部。クロヴェルのことも、父のことも」 「礼を言うのはまだ早いわよ」フィオナが肩をすくめた。
「これから本番なんだから」
「本番?」 「国王陛下に会う日。その時に、今日整理したこの図を頭の中に入れた状態で話せるかどうか。それが最初の山場」フィオナは炭を持ち、板の端に小さく書き加えた。
『国王謁見 準備中』
「あと——」フィオナが少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ダリウスと再会した時に、感情で殴りかからないようにね」
「殴らない」 「言葉で、よ」 「それは……」エリナは少し黙った。
「保証できない」
「正直ね」フィオナが笑った。
エリナも、ほんの少しだけ、笑った。 その夜、エリナは一人で板の図を見つめていた。 魔法に支配されたこの国の構造が、一本一本の線で可視化されている。クロヴェルの影。その影の中に、父の名前と、自分の名前。怖い。
正直にそう思った。
でも——
面白い。
そうも思っている自分に気づいた。
知識と線で世界を組み替える作業は、前世でやっていた「システム設計」にどこか似ていた。複雑なものを分解して、構造を見て、ボトルネックを見つけて、改善の一手を打つ。
今、その相手が「国家」になっているだけだ。「お父さん」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「あなたが見ていたものを、私も見てみる」
返事はない。
でも、どこかで見ていると信じたくなるくらいには、今日は少しだけ感傷的だった。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
クロヴェルの情報は、もう『影』ではなく、具体的な線として目の前にある。
次に必要なのは、その線をどう切るか——あるいは、どう結び直すか、だ。 ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度だけ板を見た。中央の『クロヴェル侯爵』の下に、小さく『ダリウス』と書き足した。
その右隣に、ごく小さく。
「揺らぎ 利用可?」
と書いて、すぐに指でこすって消した。
まだ、言葉にするには早い。 でも、いつか——必ず使う。 その確信だけを胸に、エリナは灯りを消した。レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」
王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。 国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。 エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。 一、二、三、四——。 数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。 王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。 一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。 王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。「まずは整理ね」 宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」「了解」 エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。 レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。「一年の任務、ざっくり言うと三つ」 フィオナが指を立てる。「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」「それぞれ、細かく分解する」 エリナが引き継いだ。「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」 フィオナが言う。「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」「三つ目が、一番読みにくい」 エリナは少し眉をひそめた。 「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
玉座の間は、思っていたより静かだった。 もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。 赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。 左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。 そして、その最奥。 ひとつだけ高く据えられた椅子。 国王の椅子。 そこに座る人物を、エリナは見た。 ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。 四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。 人をよく見ている目だ。 玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。 クロヴェル侯爵。 エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。 見ている。 でも、今はそちらを見返さない。 エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。 決められた位置まで進み、エリナは跪いた。「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」 声は震えなかった。 震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。 沈黙が、一拍。 そして、国王の声が降ってきた。「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」 落ち着いた、低い声だった。 エリナはゆっくりと顔を上げた。 国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた







