LOGIN国王に会う話が決まった翌日、フィオナは「今日の午後、時間ある?」とだけ言って、珍しく一人で事務室に残った。
エリナは午前中の仕事——石鹸の出荷確認と、ベルナ向けの在庫調整、それからルナの薬草仕分けのチェック——を片付けてから、昼食を早めに済ませた。
午後、事務室に入ると、フィオナが既に机の上に何枚もの板と紙を広げていた。
板には、炭で書かれた名前と線。紙には簡単な地図と、いくつかの数字。「座って」
フィオナが顎で向かいの椅子を示した。いつもより声が少しだけ低い。
「今日、話すって言ってたクロヴェルのこと?」
「ええ。どうせ国王に会う前に、どこかで一度は全部整理しなきゃいけなかったから」エリナは椅子に座り、机の上の板を見た。
中央に大きく『クロヴェル侯爵』。そこから何本も線が伸びている。魔法省、財務省、商人ギルド、王立魔法学院、地方領主たちの名前。フィオナが一本一本、指でなぞった。
「じゃ、始めましょうか。——私が知っているクロヴェル家の話を、全部」
「まず、私の家から」フィオナは自分の名前を書いた小さな板を指先で軽く叩いた。
「クロスベル男爵家。今は没落済み」
「二年前、事業失敗で没落したって言ってた」 「表向きはね」フィオナが皮肉っぽく笑った。
「でも、内情は少し違う」
「聞かせて」 「父は元々、地方の小さな港町を任されてた。クロスベル領は船の寄港地で、商人との付き合いが多かった。父はそこで、魔法に頼らない運送の仕組み——馬車と小舟を組み合わせた物流網——を考えて、実際に動かし始めた」エリナの頭の中で、すぐに構図が浮かんだ。
「既存の魔法輸送と競合した」
「そう」フィオナが頷く。
「王都と各地方を結ぶ主要な早馬便や魔法通信網は、ほとんどがクロヴェル家とその取り巻きの貴族の管理下にある。うちの父のやろうとしたことは、それに穴を開ける可能性があった。だから——潰された」
フィオナの声は淡々としていた。
「最初は税の査察が来た。次に、取引先の商人に『クロスベルと組むなら、うちとの契約は切る』って圧力がかかった。それでも粘ってたら、今度は借入金の返済期限が一方的に前倒しにされた」
「借金?」 「事業を広げるための資金よ。父は計画的に借りてた。でも貸し手の一部が、ある日突然『返済期限を守れないなら一括返済を求める』って言い出した。普通はそんな無茶はしない。でも——背後に、いた。魔法省と繋がっている貴族と、商人ギルドの一部。それをまとめて動かせる人間なんて、そう多くない」フィオナが中央の名前を軽く叩いた。
「クロヴェル侯爵。直接命令したかどうかまでは知らないけど、『あの領地の試みは目障りだ』と言ったのは確か」
エリナは指先に力が入るのを自覚した。机の縁を握る手が、少し白くなる。
「父は、借り換え交渉をしようとした。でも相手にされなかった。最終的に、爵位を返上して資産を手放す代わりに、刑事罰だけは免れた。——形式上は『事業の失敗による自滅』。実態は、じわじわと首を絞められて選択肢を奪われた結果」
フィオナの目が、一瞬だけ揺れた。すぐに元の鋭さに戻る。
「それが、私とクロヴェルの最初の接点」
「直接会ったことは?」 「一度だけ」フィオナが視線を少し宙に泳がせた。
「爵位返上の書類に父が署名する時、立ち会い人として来てた」
「どんな人だった?」 「完璧な貴族、って感じ」フィオナが唇を歪めた。
「穏やかで、礼儀正しくて、言葉選びも丁寧。それでいて、一言一言が、相手の逃げ道を塞ぐように計算されてる」
エリナはダリウスの笑顔を思い出した。穏やかで、礼儀正しくて、それでもどこかぎこちない目。
「父に、『あなたの努力は理解している』って言ったの。『しかし、王国の秩序を守るためには、一定の線引きが必要だ』って。——わかる?」
「『理解している』と言いながら、切り捨てる言い方」 「そう。理解してるって言葉ほど、相手を突き放す道具はないわ」フィオナの声に、かすかな怒りが滲んだ。
「その目を見て、ああ、この人は父の何も見てないんだなってわかった」
エリナは黙って聞いていた。
理解している、か。 その言葉の軽さと重さを、前世でも何度も見てきた。「で、本題はここから」
フィオナは指で板の別の部分を叩いた。
「クロヴェル家の『力の源』の話」
中央の『クロヴェル侯爵』から伸びる線の一本に、『魔法省 副長官』と書かれている。
「魔法省は名目上、魔法師の登録と任用を管理する役所。でも実態は『魔法に関わるあらゆる利権を束ねるところ』。軍の魔法部隊、王都の結界維持、王宮の防御、魔法研究への資金配分——全部、ここを通る」
「そこに、クロヴェルがいる」 「副長官という肩書き以上の影響力よ。現長官は高齢で、実務はほとんどクロヴェルが仕切ってる。つまり、この国の『魔法』に関する実権の多くを握ってるってこと」 「魔法省の中にも派閥がある?」 「もちろん。大きく三つ」フィオナは別の板を取り出し、三つの円を書いて繋いだ。
「一つ目が、クロヴェルを中心とした『貴族派』。魔法は貴族の特権であるべき、って考え方。二つ目が『実務派』。魔法の有効活用を重視して、階級より成果を見る人たち。レインの師匠は多分こっち。三つ目が『研究派』。新しい魔法理論や応用技術に興味がある学者タイプ」
「エリナは、どこから見ても嫌われそうね」フィオナが自分で言って、自分で笑った。
「魔法を使わずに結果を出してるから、貴族派から見れば目障り。実務派から見れば利用価値はあるけど、扱いが難しい。研究派から見れば興味深いけど、自分たちの領分を侵されそう」
「つまり、誰にとっても『無視できない存在』になりつつある」 「そういうこと」エリナは、静かに息を吐いた。
無視されない、というのは、必ずしも良いことではない。 注目は、保護にもなるが、標的にもなる。「クロヴェルが最近、明確に動いたのは三つ」
フィオナは一本指を立てた。
「一つ目。学院への通達。レインが言ってた『魔法以外の手段を過度に評価するな』ってやつ。これは、治癒魔法師と薬草学講座に特に強く出てる。石鹸と消毒液の位置づけを、あくまで『補助』に押さえつけようとしてる」
「魔法の優位を守りたい」 「そう。二つ目」フィオナは別の線を叩いた。
「商人ギルドの一部に、『アッシュフォード商会への融資条件を厳しくしろ』って圧力がかかってる。具体的には、『土地を担保にしない限り大口の融資はするな』って」
「まだ、うちは大口の融資を受けてない」 「だから事前牽制よ。あなたが今後、規模を一気に広げようとした時に、『土地を担保にしろ』って言われる可能性が高い。それを飲めば、アッシュフォード商会と、あなたの家族全員の生活基盤をギルド経由で握られる」エリナは、自分の胸のあたりをぎゅっと掴んだような感覚を覚えた。
母の住む長屋。マリオの家。ルナの居場所。 それらが見えない鎖で繋がれる未来図。「三つ目」
フィオナの声が少し低くなった。
「これは、半分は噂。でも、かなり信憑性が高い」
「聞かせて」 「クロヴェル侯爵が、次期魔法省長官の椅子を狙ってる。現長官が引退するタイミングを見計らって、自分を後継に据えるための根回しを始めてるって話」エリナの脳裏に、レインの言葉が浮かんだ。
——最近、国王陛下との距離が開いている。
「国王は?」
「陛下は、本当は別の人間を長官にしたいらしい。平民出身で、実務派の魔法師。クロヴェルとは真逆のタイプ。でもそれをやるには、大貴族たちの反発が強すぎる」 「だから、板挟み」 「そう。そこで陛下が探しているのが、『魔法以外の力』」フィオナがエリナを指先で示した。あなたみたいな」 「じゃあ、質問」フィオナが椅子の背にもたれた。
「クロヴェルが今後取りそうな手を、三つ挙げて」
いきなりの問いかけだったが、エリナの頭はすでに動いていた。
「一つ目、情報操作。私とアッシュフォード商会に関する噂を流して、『危険な思想を持った無謀な子ども』って印象を広める」
「具体的には?」 「『魔法を否定している』『貴族社会を壊そうとしている』『危険な薬をばらまいている』とか。治癒魔法師の仕事を奪うって話もその一つ」 「正解。二つ目は?」 「経済的圧迫。今言ってた融資条件の話。あと、取引先への圧力。ロッソ商会に『アッシュフォード商会と取引を続けるなら、別の利権を渡さない』ってやる可能性もある」 「三つ目」 「……直接的な妨害。商会の倉庫を急な検査で止めるとか、運送路に嫌がらせをするとか、最悪は事故に見せかけてこちらの人間を——」そこで、エリナは言葉を切った。
フィオナが静かに頷いた。「だからこそ、こっちの『手札』も整理する必要があるのよ」
フィオナは板の別の部分を叩いた。
「クロヴェルに対抗するための材料は、大きく四つ」
一本指。
「一つ目。数字。ルシェムと学院での成果データ。『魔法以外の手段』が、どれだけ人を救っているかの証拠。これは、誰が見ても否定しにくい」
二本目の指。
「二つ目。世論。町の人たち、商人たち、平民出身の魔法師たち。『石鹸と薬が役に立っている』って実感を持つ人間が増えれば増えるほど、クロヴェルが公然とそれを潰しにくくなる」
三本目の指。
「三つ目。国王陛下とのパイプ。これはこれから作るところ。陛下があなたの価値を直接理解してくれれば、クロヴェルが動いた時に『待った』をかけられる可能性がある」
四本目の指。
「四つ目。——ダリウス・クロヴェル」
エリナの目がわずかに見開かれた。
「ダリウス?」
「会ったでしょう。あの男の目を見て、どう思った?」エリナは机を見つめた。
「……完全な悪人には見えなかった」
「そう」フィオナが頷く。
「あの人は、父親と同じやり方をしてるけど、同じものを見てるわけじゃない」
「どういう意味?」 「彼は、父親のやり方に疑問を持ってる。でも家と立場がそれを許さない。そういう目だった」フィオナが少しだけ視線を落とした。
「私の家が爵位を返上する時も、彼は立ち会いに来てた」
「その時に、何か——」 「彼は、何も言わなかった。父親の横に立って、黙って書類を見てた。それが逆に印象に残ったのよ。何も言わない目って、あるでしょう」エリナはレインの目を思い出した。あの無表情な目の奥にある、静かな何か。それとは少し違う種類の何も言わない目。
「ダリウスは、父親になりきれない」
フィオナが続けた。
「でも、今は父親の側に立たざるを得ない。そういう人間は、どこかで揺らぐ。——その揺らぎを、利用できる可能性がある」
「味方につける?」 「そこまではいかなくても、『完全な敵』にはさせない。情報を流してもらうとか、動きを遅らせてもらうとか。クロヴェル家の中に、一本だけでもこちら側に揺れている線を作れたら、大きい」エリナは黙って考えた。
「でも——危険でもある」
「もちろん」フィオナがあっさり認めた。
「感情に流されて近づけば、逆に利用されるリスクもある。だから、私が見る」
「フィオナが?」 「情報戦と感情戦は、私の担当。あなたは数字と戦略に集中すればいい」その言い方が妙に頼もしくて、エリナは少しだけ肩の力が抜けた。
「最後に、父上の話」
フィオナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「アッシュフォード侯爵のこと」
エリナの背筋が、無意識に伸びた。
「知ってること、全部教えて」
「全部は難しいけど、私が聞いた範囲でね」フィオナは別の紙を取り出した。
「父がよく話してたの。『アッシュフォード侯爵がこんな提案をしていた』『もしあの人の案が通っていたら、うちの領地も違っていたかもしれない』って」
「父の……案?」 「『魔法に頼らない国家運営』。魔法省の権限を削って、省庁間のバランスを取り直す案」フィオナが図を描いた。
「軍の一部を平民志願制にして、魔法だけじゃなく戦術と兵站で戦える部隊を作る案。税制を見直して、魔法貴族の特権税を削る案」
「それって——」 「今あなたがやろうとしてることの、国家レベル版よ」フィオナが笑った。
「父はよく言ってた。『アッシュフォード侯爵は、魔法に頼りきったこの国の膝に、そっと楔を打ち込もうとしている』って」
エリナの喉の奥が、きゅっと詰まるのを感じた。
「でも、その案は通らなかった」
「当然ね。クロヴェルを筆頭に、貴族派が総出で潰した。『魔法の権威を傷つける』『王国の伝統に反する』って大騒ぎして」 「父は——どうしてそこまで」 「理由までは知らない。でも、多分——」フィオナがエリナを見た。
「あなたと同じものを見てたからじゃない?」
エリナは、机の上の板を見つめた。
魔法省、商人ギルド、王立魔法学院、貴族派、実務派、国王。そこに一本だけ、アッシュフォードの名が線でつながれていた。父は一人で、この図を相手にしていた。
今は、自分がそれを継ごうとしている。 でも——自分は一人ではない。 フィオナがいて、ゴードンがいて、マリオがいて、ルナがいて。レインがいる。 それが、父との一番大きな違いだ。「……ありがとう」
気づけば、エリナの口からその言葉がこぼれていた。
「何に?」
「全部。クロヴェルのことも、父のことも」 「礼を言うのはまだ早いわよ」フィオナが肩をすくめた。
「これから本番なんだから」
「本番?」 「国王陛下に会う日。その時に、今日整理したこの図を頭の中に入れた状態で話せるかどうか。それが最初の山場」フィオナは炭を持ち、板の端に小さく書き加えた。
『国王謁見 準備中』
「あと——」フィオナが少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ダリウスと再会した時に、感情で殴りかからないようにね」
「殴らない」 「言葉で、よ」 「それは……」エリナは少し黙った。
「保証できない」
「正直ね」フィオナが笑った。
エリナも、ほんの少しだけ、笑った。 その夜、エリナは一人で板の図を見つめていた。 魔法に支配されたこの国の構造が、一本一本の線で可視化されている。クロヴェルの影。その影の中に、父の名前と、自分の名前。怖い。
正直にそう思った。
でも——
面白い。
そうも思っている自分に気づいた。
知識と線で世界を組み替える作業は、前世でやっていた「システム設計」にどこか似ていた。複雑なものを分解して、構造を見て、ボトルネックを見つけて、改善の一手を打つ。
今、その相手が「国家」になっているだけだ。「お父さん」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「あなたが見ていたものを、私も見てみる」
返事はない。
でも、どこかで見ていると信じたくなるくらいには、今日は少しだけ感傷的だった。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
クロヴェルの情報は、もう『影』ではなく、具体的な線として目の前にある。
次に必要なのは、その線をどう切るか——あるいは、どう結び直すか、だ。 ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度だけ板を見た。中央の『クロヴェル侯爵』の下に、小さく『ダリウス』と書き足した。
その右隣に、ごく小さく。
「揺らぎ 利用可?」
と書いて、すぐに指でこすって消した。
まだ、言葉にするには早い。 でも、いつか——必ず使う。 その確信だけを胸に、エリナは灯りを消した。四月になった。 春が本格的になった。 市場に花と野菜が並んだ。 フィオナの庭の薬草が、緑色を深くした。 農地の薬草が、二年目の芽を出し始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 春の空気が入ってきた。 今年も、春が来た。 でも、今年の四月は、動きが重なった。 四月の最初の週に、フィオナが地方の学校に向けて出発した。 三カ所を順番に回る予定だった。 一カ所に、二日から三日滞在する。 全部で二週間ほどの旅だった。 出発の朝、フィオナが長屋に来た。「行ってくる」フィオナが言った。「行ってらっしゃい」エリナが言った。「気をつけて」「気をつける」フィオナが言った。「何かあれば、手紙を出す」「待っています」「ルシェムが、待っていてくれる」フィオナが言った。「それが、わかっているから、どこにでも行ける」「帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」エリナが言った。「あなたの言葉だ」フィオナが笑った。「でも、今日は自分の言葉として使う」「そうしてください」 マリオが見送りに来た。「フィオナさん、行ってらっしゃい」マリオが言った。「ありがとう、マリオ」フィオナが言った。「ルシェムは、俺が守っておく」マリオが言った。「マリオが守っているなら、安心だ」フィオナが笑った。「いつも、そう言ってくれるから、どこにでも行ける」「それが俺の仕事だから」マリオが言った。 ルナが来た。「庭の薬草、水をやっておく」ルナが静かに言った。「ありがとう、ルナ」フィオナが言った。「帰ってきた時に、育っていると嬉しい」「育てておく」ルナが頷いた。「植物は、帰ってくる人を待っている」「その言葉が、好きだ」フィオナが言った。 フィオナの馬が動き出した。 エリナ、マリオ、ルナが見送
二月になった。 冬がまだ続いていた。 でも、日が少しずつ長くなってきた。 夕方、作業場の前に立つと、去年の今頃より少しだけ長く外が明るかった。 エリナは、その変化に気づいていた。 春が、近づいている。 毎年、同じように春が来た。 でも、毎年少し違う春だった。 今年の春は、父の名誉が回復された後の最初の春だった。 二月の初めに、レインから手紙が来た。エリナへ「届いた」という言葉を受け取った。「続けてきたことが、今日の形になった」という言葉も。俺も、同じことを感じた。遠くにいたが、届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした。師匠に話したら、「そうか」と言った。それだけだったが、師匠の「そうか」は、受け取った、という意味だとわかっている。春になったら、行く。今年の春のルシェムを見たい。それと、個人的なことを一つ。師匠が今年の夏に退く方向で、学院と話し合いが進んでいる。師匠が退いた後、俺がどうするかを、少し考えている。まだ言葉にできない部分がある。でも、考えていることは確かだ。春に、話せると思う。レイン エリナはレインの手紙を読んで、「春に、話せると思う」という一行を少しだけ見た。 言葉にできない部分がある。でも、考えている。 以前、レインが同じようなことを言った時、大事なことが言葉になる前だった。 春に来る。そして、話す。『レインへ「届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした」という言葉を受け取りました。遠くにいても、繋がっているということですね。それが、続けてきたことの形だと思います。師匠のことを受け取りました。師匠が退いた後のことを、春に話してください。聞きます。春のルシェムを、見てほしいと思っています。今年の春は、少し違う春かもしれません。父の名誉が回復された後の最初の春だから。待っています。
一月になった。 新しい年が来た。 ルシェムの元旦は、今年も静かだった。 市場が休んだ。道を歩く人が少なかった。 エリナは朝、台所の窓を開けた。 冷たい空気が入ってきた。 霜が降りていた。 今年も、同じ朝から始まった。 元旦の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。 八年連続だった。「また蜂蜜のパンですね」エリナが言った。「毎年同じの方がいい」セレーナが言った。「始まりには、同じものがいい」「来年も、同じですか」「来年も同じにする」セレーナが穏やかに言った。「それが、続けることだから」 エリナは蜂蜜のパンを食べた。 甘かった。 八年間、変わらない甘さだった。 変わらない甘さが、続いてきたことの味だった。 マリオが来た。「おめでとう、新年だな」「おめでとうございます」「毎年言っているな」マリオが笑った。「毎年言ってくれますね」「来年も言う」「わかっています」 マリオが少しだけ、エリナを見た。「今年は、どんな年になると思う」「わかりません」エリナが言った。「でも、続けることは変わりません」「それだけで十分だな」マリオが頷いた。「続ければ、何かになる。それが、これまでそうだったから」「そうですね」「お前と一緒にいて、一番覚えた言葉だ」マリオが言った。「急がない。でも、止まらない」「マリオが、その言葉を使えるようになりましたね」「お前から学んだ」マリオが言った。「七年間で、一番大事な言葉を学んだ」 一月の第二週に、レインから年始の手紙が来た。エリナへ新年になった。今年も、手紙を書く。今年の冬に、また霜の石畳を一緒に歩く。それが、今年の始まりに確かなことだ。一つだけ、届けたいことがある
十二月になった。 冬が本格的になった。 ルシェムの霜が、厚くなった。 朝、窓を開けると、白い息が出た。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日も、冬の空気だった。 それが、当たり前になっていた。 当たり前になったことが、続いていることだと、今は知っていた。 レインが学院に帰って、一週間が経っていた。 手紙が届いた。 エリナへ 帰ってきた。 学院の石畳は、今日も霜が降りていた。朝、歩きながら、今年もエリナと一緒に歩いた、と思った。 それが、今年の霜の石畳の重みだと思う。来年も、一緒に歩く。その積み重ねが、続くことだと思っている。 一つだけ、今日感じたことを届けたい。 図書室に行った。いつもの席に座った。光がいつも通り入ってきた。でも、少し違った。 なぜ違うかを考えた。 エリナが、この光を見たから、かもしれない。一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きることだと思う。 手紙を書く。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。 一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きること。 開けた。 レインへ「一緒に見たから、一人で見る時も一緒に見ている感じがする」という言葉を受け取りました。 私も、同じです。今朝、ルシェムの霜を見た時、学院の石畳を思い出しました。一緒に歩いたから、一人で見る霜の中に、あなたがいます。 それが、続けることで起きることですね。 来年の冬も、一緒に歩きます。約束しました。それが、今から楽しみです。 農地の年末報告を、来週ベルトとルナがまとめます。来年の計画が、少し見えてきそうです。
十一月になった。 冬が近づいていた。 朝の霜が、また降り始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 霜が降りていた。 薄い霜だった。 でも、毎年少しずつ厚くなっていく。 それが、冬の始まりの形だった。 霜を見るたびに、学院の石畳を思い出した。 今年も、その季節が来た。 十一月の初め、レインから手紙が来た。 エリナへ 今月の終わりか、来月の初めに行く。 今年も、霜の石畳を一緒に見たい。 学院の霜が、今年も降り始めた。朝、図書室に向かう廊下を歩きながら、今年もエリナが来ると思った。 それだけで、少し違う朝になった。 待っていてくれるか。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、「それだけで、少し違う朝になった」という一行を少しだけ見た。 来ると思っただけで、朝が違う。 自分も、同じだった。 レインが来る時期が近づくと、朝の空気が少し違う感じがする。 レインへ 来月、来てください。待っています。今年も、一緒に霜の石畳を歩きたいです。「来ると思っただけで、少し違う朝になった」という言葉を受け取りました。私も、同じです。あなたが来る時 期が近づくと、いつもと少し違う感じがします。 農地の件、ベルトとルナが腐葉土を混ぜる試みを続けています。来月の報告書を、一緒に持っていきます。 ――エリナ―― 十一月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。 エリナ・アッシュフォード殿へ 名誉回復の審議について、大きな進展があった。 先月、証言者が委員会で正式に証言した。アッシュフォード侯爵の改革案は、当時から正しい方向だったという内容だった。委員会は、その証言を正式な記録として採択した。 決定には、もう少し時間がかかる。でも、方向は決ま
九月になった。 秋が来た。 朝の空気が、夏とははっきり違う冷たさを持ち始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日は、秋の空気だった。 窓を開けるたびに、今日の変化を感じる習慣は、何年も続いていた。 変わらない習慣の中に、毎日少しずつ違う空気があった。 それが、続けることの形だと思っていた。 九月の最初の週、フィオナが長屋に来た。「一つ、伝えたいことがある」「どうぞ」「ダリウスから連絡が来た」「どんな内容ですか?」「父の名誉回復の審議について、進展があった。審議委員会が、アッシュフォード侯爵の件を正式に議題として取り上げた。次の会合で、具体的な審議に入るとのこと」 エリナは少しだけ止まった。 正式に議題として取り上げられた。「ダリウスが、教えてくれたんですね」「そう。定期報告の中に、この話が入っていた。重要だと思って、すぐに来た」「ありがとうございます」「礼はいらない。でも、一つだけ聞いていい?」「どうぞ」「どんな気持ち?」 エリナは少し考えた。「静かな気持ちです」「静か、というのは?」「大きな感情が来ると思っていた。でも、来なかった。静かだった。谁かがそうでした。当然のことが形になった、という感じがします」「当然のことが、形になってきた、か」「父が正しかったことは、もうわかっている。だから、名誉が回復されることは、当然のことだと思っています。でも、それが形になるまでに、時間がかかった。やっと、時間が追いついてきた」「時間が追いついてきた。それが、正確な言い方かもしれない」 セレーナに伝えた。「お母さん、また一つ、動きました」「名誉回復の件?」「はい。正式に議題として取り上げられました」 セレーナが手を止めた。 少しだけ、窓の外を見た。「そうかぁ」 セレー






